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「と学会誌11」pp.66-69に関するメモ

作成日 2003-08-18
更新日 2003-08-19
更新日 2003-08-20
更新日 2003-08-21
更新日 2003-09-01

 私は2002年10月17日の日記において、

『カルト資本主義』は、経営者や「エリート」と呼ばれる人達がなぜオカルティズムと親和的なのかという疑問から出発して、現代の事象を丹念に追いかけた作品。これを読むと「脳内革命」や「ポジティブ・シンキング」が称揚された風潮の底に流れているモノがよくわかります。(中略)
 両書を貸してくれた人と話をして、いわゆる「ト系」に対し、(当然おかしな部分に突っ込みをいれるのは良いとして)冷笑の態度をとることが、かえって視野を狭めてしまうのではないかという結論に。『カルト資本主義』もそうなのですが、この手の社会批判はギリギリの所に立っていて、一歩間違えると陰謀論です。何かの本でこの本が「と本」として扱われてしまったのも、ある意味理解できます(筋違いだとは思いますが)。批判精神は想像力も不可欠であり、「と本」に対する冷笑的態度は実は想像力の貧困を露呈しているのではないかと。

と書きましたが、件の「何かの本」とは『トンデモ本の世界R』で、著者は藤倉珊氏でした。そしてようやっと「と学会誌11」における藤倉氏の「カルト資本主義批判の後で あるいは続・斎藤貴夫批判」(以下「カルト資本主義の後で」)を読んでみたのです。さて、藤倉氏の「カルト資本主義の後で」によると次のように書いてあります。

* 2003-09-01追記:藤倉氏の引用中、斎藤貴男が斎藤貴夫になっていますが、これは原文のママです。

 さて私は『カルト資本主義』についていろいろ書いたが、その最大の主張は書き方がアンフェアであるということであった。このとき私は斎藤貴夫がその年(2001年)の「論座」4月号に書いた「「客観報道」のなれの果て」という文を知らなかった。(中略)その文は『カルト資本主義』が意図的にアンフェアに書いた本だと宣言するものであったからである。はっきり言ってあいた口がふさがらない文であった。(「カルト資本主義批判の後で」p.66)

 こりゃ吃驚です。斎藤氏がどういう人物なのかについては全然知らないのですが、ジャーナリストが「客観報道やーめた」とか言い出したとなれば、どうなってるの?と思いますよね。しかも、藤倉氏は非常に激高した感じの文章になってまして、どうにも、本当かいな?という感じがします。そこで、実際に「論座」2001年4月号にあたってみました。その結果、藤倉氏が完全に斎藤氏の文章に対し誤読をしているという結論に至りました。まあ、はっきりいってこれはどうでも良いことなのかもしれませんが、藤倉氏自身の文書がアンフェアであるので、せめて、日記にちらと書いてしまったのも何かの縁で、ここにまとめておこうと思った次第です。ここまででつまらないと思いましたら、あとはさらにつまらない文章が続きますので、どうぞブラウザの戻るボタンで戻っちゃってくだちいな。

--本題--

Aパート

 まず、藤倉氏が述べている「「客観報道」のなれの果て」ですが、正式なタイトルは「「客観報道」では届かないメッセージ」。この時点でかなりニュアンスが違いませんか?また、藤倉氏は7ページほどの論文といってますが、実際には4ページです。

 以下に「客観報道〜」から長文を引用して、まとめてみます。斎藤氏は、ある雑誌に発表した文書に対して読者から自分の意図とは正反対の読み方をされたことにショックを受けたことを明らかにした上で、以下のように述べます。
 客観報道というスタイルはもともと欠陥を孕んでおり、時代の空気、大衆の気分次第で、権力のプロパガンダとして機能してしまわざるを得ないのではないか−−。
 私はこの仕事を起点にソニーの超能力研究や科学技術庁のオカルト勉強会にも取材し、『カルト資本主義』(文藝春秋)として一冊にまとめる際、”客観報道”を捨てた。無名のライターが主張を躊躇わないことへの反発が予想されたが、批判をヨイショと誤読されるよりはマシだと考えた。
 たとえば京セラの稲盛和夫名誉会長に関する章で、彼の阪神大震災直後の発言を引いた。災難に遭うのは自分や先祖が積んできたカルマ(業)が消えることなのだから喜べ、という論旨に続けて、稲盛氏はこう語っていた。
「私には(神戸周辺に)積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大災害が起きたとしか思えません。しかし逆に考えれば、神戸周辺のカルマはいま消えたのです。ですから今後、神戸地区は大きく発展するはずです」
 以前の私なら、この言葉を紹介した後は読者の判断に任せ、すぐ次の話題へ移っただろう。だがこの時私は、オウムの麻原彰晃が新約聖書の謂うハルマゲドンを”地球規模でのカルマ清算”と受け止め、カルマの重い人間の生命を絶つことは善行と考えていたとする学者の論文に言及し、こう続けた。
 <稲盛氏もまた、自らを神になぞらえ、他人の尊厳に唾を吐きかけている>
 伊達や酔狂でここまで書けない。ヒトラーに対する稲盛氏の情景や、企業の論理を普遍の真理と言い換える論法、現実の労務手法なども詳細に描いた上での意味づけだった。”客観報道”から脱するためには、それ相応の取材量も求められる。(「論座」2001.4,p.115)

 斎藤氏がなぜ”客観報道”と括弧付けにわざわざしているのか、藤倉氏は理解しているのでしょうか?彼が「”客観報道”を捨てた」という時、それは事実を捏造するとか、ありもしないことを妄想で書くという意味でないことは上の引用でわかるはずです。一言でまとめるならば、彼は批判を受けるのを覚悟で自分の主張をも書き込むよと言っているのです。それが彼言うところの「”客観報道”を捨てた」理解としては自然でしょう。

 ところが、藤倉氏の文書に従うと、

 しかし仮にもジャーナリストが、客観報道を捨てるなどと宣言していいものだろうか。だいたい客観報道で伝えられないとしたら、ここまでが取材または引用であって、ここからが私の主張であると分かるようにして書けばいいだけではないか。短い新聞記事では難しいだろうが、ある程度長い雑誌記事、さらには単行本であるなら不可能ではないはずである。しかし斎藤貴夫はそれをしない。あくまで自分はジャーナリズムを名乗り、客観報道のようなふりをして偏向報道を次々に書いていくのだ。その中身はあいかわず偏向と妄想のかたまりのようなものである。(「カルト資本主義の後で」p.67)

 …ま、これぐらいでいいでしょう。あとは延々と斎藤氏に対する罵倒が続くだけですから。

 「ここまでが取材または引用であって、ここからが私の主張であると分かるようにして書けばいい」についてですが、他の本は知りませんが、『カルト資本主義』では、取材と主張とが渾然一体にはなっていません。著者の主張については「〜と私は思った」って書いてあります。そうじゃない部分でも、取材の引用なのか、著者の主張なのかぐらい読めばわかります。…いや藤倉氏にはわからなかったのかもしれませんが…

 斎藤氏の”客観報道”観について、もう一つ引用しましょう。これは斎藤氏が日本工業新聞に勤務していた時代、記者クラブに出入りしていた経験について触れた部分です。

 各社のトップが懇談で語る話や、広報の発表は、原則そのまま記事にした。朝、毎、読の大新聞も同様。他の業界や官庁、政治家も警察も、記者が張りつくあらゆる領域で、発表する側は嘘をつかない”お約束”を前提に、報道の多くが作られていく。
 完全な客観報道などあり得ない。記者クラブの問題はさておいても、報道とは所詮、ニュースソースなり原稿をまとめる記者の意図や主観次第でいかようにも左右されるものなのだ。
 にもかかわらず”客観”にこだわりすぎるから、権威によりかかりたくなる。自前で掴んだネタまで当局に提出し、”お墨付きを”を貰ってから報じるなどという、ほとんど茶番劇が、かくて罷り通る。(「論座」2001.4,p.116)

 これを私なりにまとめると、「不可能であるにも関わらず、完全な客観報道を心がけようとするあまり、権威が提供する情報しか報道しなくなっている」ということでしょう。しかし、不可能だから事実に基づかなくてよいなどという話はしていません。
 「完全な客観報道」の不可能性なんていうのは、文系、とくに社会学系の勉強をした人なら大概知っている話で、まあそうだよね、という類のことなのですが、藤倉氏には納得がいかなかったのかもしれません。で、そこからあとは報道する側の「主体性」の問題になっちゃうわけで、どのような立場から報道するか、というのは常について回るわけです。その過程で斎藤氏がある一定の立場にたって報道しようというだけのことでしょう。斎藤氏の主体性に関する問題はこのメモの範疇を越えますので、これ以上ここでは触れません。
 たぶん藤倉氏の考えている「ジャーナリズム」とは、主張抜きの(もちろんいかなる価値からからも中立なんてことは実際には無理なのですが)事実を垂れ流してくれる「報道機関」か何かなのでしょう。だから、ルポルタージュのような「書き手の主張」が入っている文章をみると、我慢できなくなるのかもしれません。しかし、藤倉氏の思い描く(であろう)「ジャーナリズム」(主観を排した報道)と斎藤氏のそれ(客観的事実に基づきつつも自らの主張を述べる)とは方向性が違うのですから、「客観報道のようなふりをして偏向報道を次々に書いていく」という批判は水掛け論になってしまいます。

 以上のように、実際の「論座」の文章と照らし合わせると、上に挙げてきた藤倉氏の批判が的外れなことがわかるかと思います。

Bパート

 先のパートは、斎藤氏の「論座」に対する藤倉氏の誤読の指摘でした。ここから先は、「カルト資本主義批判の後で」内在的な批判を行います。つまることろ、「カルト資本主義の後で」のフェアでないところの指摘です。

 さあ、急いでこの文章を書いて、録画した犬夜叉を見ないと!

杜撰な参照

 先にも触れましたが、藤倉氏は斎藤氏の「「客観報道」では届かないメッセージ」を「「客観報道」のなれの果て」というタイトルで言及されています。これは読み手に与える印象がかなり違いませんか?意図的なのか、タイトルを失念したのかわかりませんが(ページ数も間違えているところをみると、たぶん失念したのでしょう)、批判するべき文章に対してこういう態度で本当にいいのか、訝しく思います。

勝手に責任を負わせる

 藤倉氏の文章の大きな問題は、藤倉氏が想定する(と思われる)「ジャーナリスト」に斎藤氏が合致していないことをあげつらう構成になっている点です。斎藤氏の『機会不平等』を取り上げ、ひたすら政府とその味方と斎藤貴夫がみなした人々への罵倒だけである。政府案に対して代案を提案するなんて姿勢はまったく無い。(p.68)と述べています。が、そもそも、ジャーナリストって代案を出さないといけないんですか?為政者や研究者、活動家ならまだしも。

 さらに、しかし、本当に疑問に思うのは竹中平蔵や中谷巌の個人史を延々と述べる必要は経済学の世界ではあるのか、ということである。さらに個人史を明らかにせず取材にも応じない学者に対しては「自らの学問の形成史さえ明らかにしない」と非難する(p.68)と藤倉氏は憤慨しています。
 そりゃ、経済学そのもので、いちいち個人史を明らかにするというのはあまりみかけません。が、斎藤氏は経済学者ですか?藤倉氏はどう思っているかともかくとして、ジャーナリストなのでしょうから、その方法論として、経済学者の個人史を明らかにするというのがあっても何ら不思議ではないでしょう。藤倉氏はジャーナリストに経済学者の仕事まで負わせようとするのでしょうか。っていうか、ここまでくるとほとんど難癖つけてるだけしにかみえないのですが…

 せめて自らの想定するジャーナリストを明示的に規定した上で、それに基づいて斎藤氏を批判するなら、まだわかります。しかしながら、「代案をださない」とか「そんなの経済学じゃない」などといって、ジャーナリストの範疇を超える(であろう)責任を勝手に斎藤氏に負わせる議論の仕方は、はっきり言ってフェアではないですね。

自分の興味関心と違うことをもってあげつらう

 斎藤氏の『プライバシークライシス』に言及し、私の結論からいうと、この本は政府(と大企業)が民に行うプライバシー侵害についてだけ書いてあって、より重大な民間人が民間人に行う侵害(ハッカーやクラッカー)については何も書かれていないし、斎藤貴夫の関心は政府の陰謀(もちろん妄想)を暴くことにしか無いのである。(p.67)と藤倉氏は憤慨しています。
 …いつから藤倉氏は、斎藤氏の興味関心に口出しする権利を持つようになったのかしらん?正直、私は『カルト資本主義』と件の「論座」以外の斎藤氏の著作物を読んでいませんが、それらからわかるように、彼の興味関心は企業社会や国家権力についてあることは間違いないでしょう。それに対して、企業や国家のことしか書いていないからけしからん、というのは、批判になってないでしょ。 藤倉氏に対して「おまえは民間のことしか関心無いからけしからん」と、そっくりそのまま返されたらどうするんだろう?

私憤?その他

 以下、おまけ。

斎藤貴夫は、すぐ「人間の自由と尊厳」を守るとか偉そうなことを言っているが、自分の気に入っている人間の自由と尊厳だけをヒステリックにさけび、自分と嗜好が異なる人間の自由と尊厳をこれだけ攻撃する人は、今の日本でも珍しいと思う。(p.67)と藤倉氏は憤(以下略)
 「自分の気に入って〜」以下の批判は一体斎藤氏のどの辺りの文章から導かれているのでしょう?残念ながら引用箇所が全く記載されていないのでわからないのですが、批判するならせめて「斎藤氏が気に入っている人」が誰なのか、「斎藤氏の嗜好」が何なのかぐらい明らかにできなかったのでしょうかね。あまりに曖昧な文章のような気が…

 誤読といい、的はずれな批判といい、どうにも、藤倉氏の文は、斎藤氏への私憤で書かれているようにしか思えないのですが、何か琴線に触れたんでしょうか?もしかしたら、斎藤貴夫が「最近のアニメ」をオカルトと攻撃していることを私は忘れない。というか、これが個人的には一番腹の立つことであったりする(p.66)ってあるので、これのせいでしょうか。

 確かに、セーラームーンやエヴァをオカルトとするのは、斎藤氏の無知からきているのでしょうが、斎藤氏はその直後に具体例として、

『のび太のねじ巻き都市冒険記』には、惑星の環境を汚す人間を”神様”が懲らしめるという筋書きが盛り込まれていた。幼稚園児の長女にせがまれるままに観覧したものの、カルトに通じるディープ・エコロジーに近い内容には、背筋が寒くなった。子供に地球環境の大切さを訴えるのに、なぜ、得体の知れない”神様”の手など借りる必要があるのか(『カルト資本主義』文春文庫版 p.477)

 というのをあげています。こういう具体例に対し批判をするならともかく、藤倉氏は『ゲゲゲの鬼太郎』や『魔法使いサリー』を例にあげて、これらもオカルトであり昔からオカルトはある。斎藤氏がこれらを知らないはずはない。だから彼は嘘つきだ。という論を展開していますが…なんといいますか、やっぱり私憤にしか思えません。

 さ、これぐらいでいいでしょう。これから犬夜叉をみてピタゴラスイッチの録画予約をしないと。

Cパート

 おおっと忘れるところでした。『カルト資本主義』に出てくる経営者ですが、私の勤めていることろの社長も雰囲気が似ているような気がして、親近感湧くんですよね。

ある日のこと

社長:「なんで阪神が優勝するかわかるか?」
私 :「…」
社長:「神社にお参りをしたからだ!」
私 :「他の球団もしてるんじゃないですか?」
社長:「いや、そうなんだよ!そうでなければ阪神が勝つはずがない」

またある日のこと

社長:「なんでキッコーマンがアメリカで成功したかわかるか?」
私 :「さあ」
社長:「キッコーマンの”マン”だ。マンはユダヤ系の名前なんだ!」
私 :「はあ…」
社長:「いや、絶対そうなんだって」

 私はこの社長が好きです。と、同時に、大企業の社長じゃなくて良かったんだろうなあ、とも思っています。おしまい

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